p68’s blog

Apple製品とMazda Roadsterが大好きです

Appleに抱え込まれるまで

家を見渡せばApple商品だらけ。そう言えばなぜApple商品を使い始めたんだ? いつからだったけ?ってことを書いていこうと思います。記憶も定かでない部分もあるのですが記憶は薄れていくものなので覚えているうちに書いておくスタンスで進めます。

 

話は30年以上まえに遡ります。

 

そのころは日本のパソコンと言えばNECのPC9801シリーズ。動かすソフトはJustsystemの「一太郎」(ワープロ)、Lotusの「1-2-3」(スプレットシート)がよく使われていました。パソコン以外にもワープロ専用機と呼ばれるものもあって、ハードウェアはノートパソコンのような液晶ディスプレイにキーボード、そしてプリンタまで装備され、ソフトウェアは専用ワード・プロセッサソフトが装備されていました。シェアはパソコンとワープロ専用機で50/50。文章を書くならワープロのほうが賢いというような宣伝がされていましたが、Justsystemの日本語入力、当時FEPと呼ばれた(Front End Processor)が頭一歩、二歩、進んでいてPC9801のほうが先進性がありました。

 

当時学生だったワタシもプログラミングの課題提出やらがあったので、人生で2台目のPC9801 RX21という16bitパソコンを親にせがんで買ってもらいました。

ちなみに1台目はFM-New7でタモリがCMをしていたパソコンです。Basicでプログラムを組んだりと大したことしていませんが、少なくともキーボードの配列は覚えられました。ただし左手は左シフト、右手の指一本で入力していたのは良い思い出です。

 

さて話を戻してRX21の話。プログラミングの課題は通常はOCR(Optical Charactor Reader)と呼ばれる紙に鉛筆でプログラムを書いて読み込んでもらうことで授業中にタイピングすることなくデバックができるというものでしたが、この読み込み精度がそれほど高くなく、キレイに書かないと誤字を修正する作業がメインになってしまい、本来の目的であるデバックができないというような非効率な感じでした。今考えれば「なんて非効率な!」って感じなのですが、当時はどのご家庭にもパソコンがあるという時代でもなかったのですし、プログラミングの課題がありながらいつでも端末が触れるような環境になかったのでいたしかたなかったのかと。

 

そんなわけでOCRの入力は一般的なパソコンを持っていない学生には有用でしたが、パソコンを買った自分にはまったく意味のないもので、講師にかけあってフロッピーでの提出を許可してもらったのは懐かしい思い出です。
おかげで大多数の人がOCRで読み込まれたプログラムの誤字を直すという作業に追われるなか、デバックに集中できて色々と組み替えたりして遊んでいました。

 

このRX21の環境はMS-DOSと呼ばれるOS(いやいやあなたそれはOSではない。ただのDisk Operating Systemではないか。と言われる人がいることは知っています)で動いていてOSとエディタソフトを入れても1MBのフロッピーに余裕で入ってプログラミングの課題程度も余裕で入るようなものでした。当時は2台のフロッピーが標準だったのでAドライブにOSとエディタ。Bドライブにデータというような使い分けです。そして当時は学生では持っている人も少なかったハードディスクがCドライブにアサインされていました。
Windows 10の現在でもこのCドライブという呼び名が残っているのは感慨深いです。いい加減この「なになにドライブ」というドライブレターはなくなってもいいんじゃないかと思っています。アルファベットには限りがありますから。

 

そんなPC9801は漢字キャラクタをROMに持っていて、軽いOSで動いていたので80x40を14インチモニタで出力する分にはスクロールが見えないくらい早かったです。思い出補正が入っているのかもしれませんがGUIが主流になったいまでも文章だけ書きたい人には最適なような気がします。

 

そんな中、学生だったワタシはバイトに明け暮れて10万円という大金を手にします。たしか夏休みを利用してめちゃめちゃバイトして貯めたお金です。そして秋葉原の問屋のような展示品がなく箱しか置かれてないようなお店に行きました。店主にはどこのメーカーのこんな商品と言っても、冷めた声で「型番でお願いします」と言われてしまうようなお店で初めてのハードディスクを購入しました。たしか容量は100MBで10万円でした。当時パソコン本体よりもハードディスクが高かったようなころだったのですが、ちょうど値段が急激にさがってきたころで、1MBが1000円になったという衝撃的な製品でした。そして当時は全てのデータをフロッピーディスクで管理してたので、100MBのハードディスクは相当広大な容量で、これは一生モンだなって思っていたのはケツのアオイワタシのいい思い出です。なぜかこの店だけ安くて普通に展示してあるお店では13万円くらいです。展示品があるお店から道を渡って倉庫のような店で買うだけで3万円安く買えたので「やっぱり電気機器を買うのは秋葉原だなぁ」って関心しました。いまは電気製品の秋葉原って印象がなくなりましたよね。

 

さて早く使ってみたいと足早に家に帰ります。設定も非常にマニアックで、どうやって情報を入手して、どうやって設定したか覚えてませんが、インターネットなどまだまだ接続できなかったので、多分I/OだかASCIIだかのパソコン雑誌と呼ばれるものを読んでハードディスクの選定、購入、設定も雑誌を見ながら設定したかと。

 

設定はconfig.sysと呼ばれるOS起動時に呼び込まれるファイルを自分で設定します。あたりまえですが、ちょっとでも間違っていると起動しなくなるのでかなり面倒でした。メモリの拡張も1MB以上を超える場合には、このファイルを編集して設定します。確か最初はフロッピーから起動させてハードディスクを認識させられるような起動フロッピーを作成します。そして十分確認を取ってからその環境をハードディスクに移すというような感じだったと思います。

 

パソコンの設定とは、なにからなにまでconfig.sysを編集という感じでした。

 

このハードディスク設定をはじめ、その後にさらにバイトをしてメモリの拡張などもおこなって自分の中では動作速度は最強だったように思います。
そしてまたまたバイトに明け暮れて8万円くらい出してNTTの電話回線を手に入れました。当時数万円のアナログモデムも購入して草の根NETと呼ばれる、誰かの家のパソコンにつなげて掲示板のデータをやりとりするってのをやったり、大手のニフティーサーブに入会してパソコンに関する書き込みを読んだりしてログをハードディスクに保存したり、必要がなくなるとフロッピーに移動したり。

 

今考えると、なにかの情報を得るというよりは、パソコンの設定の仕方をパソコンで集めるだけで、なにかパソコンが役にたってはいなかったように思います。

そのころにちょうどWindows3.1だかが発売されて、これからはGUIだ!と世の中は盛り上がっていました。MS-DOSに比べて圧倒的に設定が面倒だったような記憶があります。マウスもこのとき初めて買って設定もなんだか面倒だったような。ハードディスクからMS-DOSを起動して、自分で作ったバッチファイルだか、システムのほうで用意されていたのか、すでに定かではない、win.batを起動してWindowシステムを立ち上げる。マウスでシステムについている電卓を立ち上げる。なにかのソフトを立ち上げる。くらいで大したことできなかった記憶があります。
普段はMS-DOSで使って、たまーにWindowsを立ち上げみる。大したことできない。やっぱりMS-DOSで使う。みたいな。

 

今は6Kディスプレイなんてものありますが、当時のPC9801は解像度が640x400の14インチ。そりゃ大したことできないよって思いますよね。

 

そしてますますパソコンを使うというよりは、設定が目的になっちゃっているくらい面倒なシステムになっていました。そのころ世の中はPC-9801からDOS/Vと呼ばれる漢字ROMを持たないパソコンが流行りだしていて解像度がPC9801の640x400、DOS/Vの640x480とちょっとだけ縦に細かい解像度で、価格が随分と安くなったような感じでした。

そんなときにAppleという会社が、config.sysを書き換えることない設定の必要のないパソコンを出しているという情報をなにかで見ました。

 

Macintoshというパソコンです。パソコン界のポルシェと呼んでいたのをいまでも覚えています。

 

ポルシェということもあって、9インチ?だかの小さい白黒の画面。コンパクトな筐体で値段も60~100万円くらいしていたような気がします。そもそも舶来品のパソコンで庶民はとてもじゃないけど買えないような別世界の一品な感じでした。どうやらフロッピーもボタンではなく画面のアイコンをゴミ箱に入れると排出されるというハイテク仕様(死語)らしい。なんかこのフロッピーの排出がソフトウェア制御ってのが妙にツボにはまって、なんとなく欲しいなって思っていました。

 

そんなこんなで、MS-DOSパソコン通信をするというのに明け暮れていました。パソコン雑誌も結構買っていたように思います。そして社会人になり給料というものを手にして学生とは比べ物にならないくらいものが買えるようになりました。ただ貯金がすごく出来たかというとそうでもなく、バブルと呼ばれる好景気でなんでもかんでもものが高かったので社会人新入生には厳しい時代でした。スーツが8万円くらいしたりネクタイが1万円くらいして仕事をするための服装を揃えるだけで大出費です。

 

そんな社会人1年生のころにバブルのおかげで円が強くなったのか、はたまたMacintosh ClassicというMacなのに1000ドルを切る低価格版が出たおかげか、それまで60~100万くらいしていたと思っていたMacitosh SE/30がほぼ半額の34万円で売り出されていました。Classicは日本での売出し価格は10万円とかじゃなく15万円以上したような気がします。
Classic か SE/30 で倍くらい違う値段で悩むのもなんですが、形は似ているんだけど性能はCPUが68000か68030なので倍じゃ済まないくらい違います。

 

たしか1週間くらいは猛烈に悩みに悩んで、売り切れちゃうんじゃないかという心配もあって最終的にはSE/30を購入しました。スーツ4着以上の価格で一気に貯金がなくなりましたが、CPU 68030 (32bit), Memory 4MB, HDD 80MBでスペックはほぼ最新です。ただし画面は白黒。

 

このパソコンはめちゃめちゃ楽しかったです。あれだけPC9801で悩まされていたconfig.sysファイルなんてファイルは設定する必要がありません。起動時からGUIが表示されて指示はすべてマウスから行います。このころのMacは文字入力も含めてすべてのことがマウスでできるというのが売りだったと思います。いまでは当たり前になったファイルの削除はファイルをドラックしてゴミ箱に入れる。ゴミ箱は膨らむ。良くできているなぁと思いました。

 

あまりに設定することがなかったので、HyperCardと呼ばれる、簡単にGUIスクリプト言語のようなソフトも買いました。画面に好きなスイッチを配置して、そのスイッチに意味をもたせる。簡単な絵本のようなものならすぐにできるという極めて優れたソフトでした。ビル・アトキンソンという方が開発されました。この方がのちにMagicCapという携帯端末を開発して日本にいつ上陸するんだ?と出る。出ない。今度こそ出る。やっぱり出ない。なんて楽しみにしていました。これ今思うにデッカイiPadみたいなものでワイヤレスでメールができたりメモが取れたりとすごい楽しみな商品でした。


話を戻します。SE/30の通信環境のセットアップは随分と悩まされました。まず情報がほとんどないってのが理由の全てで雑誌をみてもMacの専門雑誌なんてUS版しかないし、頼りにしていた草の根NETも探しどころが悪かったのか見つけることができませんでした。
当時PC9801にはWTERMという非常に便利なパソコン通信ソフトがありました。電話番号の管理から、Autopilotと呼ばれるログインから必要なフォーラムの観覧、ログアウトまで最速で行ってくれるソフトで、ログアウト後にゆっくりと通信ログを読むというものでした。書き込みも予め設定しておけば投稿もできたような記憶が。

 

これに対応するMac用のソフトというのがなんなのかが数ヶ月わかりませんでした。また致命的だったのが見つけることができてもPC9801は5インチのフロッピーディスクなので、Macの3.5インチのフロッピーが使えません。なのでNETで入手することができたとしても自分ではMacのほうに転送する手段がありませんでした。

 

そんな日々の数カ月後に、本屋でMacフリーソフトがフロッピー4枚に入ったムック本みたいなものが発売されていました。なんか1万円くらいしたような記憶があります。そこにNinjaTermという通信ソフトが入っていて、これでやっとパソコン通信が始められました。でも結構シンプルな機能しかなかったので、もしくはWTERMが高性能だったためか、同じようなことができるようになるのは随分かかったように思います。

 

そのあと、OSの不安定で爆弾マークがでて(Windowsブルースクリーンに相当)やりたいことできなかったりしながらも、ハングマンやSIMCITYで遊んだりして楽しみました。
買うときに心配だったカラーじゃない。っていうのはあまり気にならなくて白黒の画面でも十分楽しめていて、PC9801をあまり触らなくなったのを覚えています。


そんなMacintosh SE/30。これが初めてのApple商品でした。 そして会社では汎用機、unixWindowsなんかを使ってますが、自宅用のパソコンとしてはコレ以降一貫してApple商品になっています。